Q.「誰」について
 『韓非子』の説難篇「非知之難、処知則難」の鄭の武公が群臣に「誰可伐者」と尋ねる箇所についてですが、通常「誰A者」の句法は「たれカAスルものゾ」と訓読し、「誰がAするのか」という意味にとりますが、ここでは「たれカうツべキものゾ」と訓読し、「誰を(どこの国を)伐てばよいか」という意味になり、「誰」字が目的語として扱われるようです。この様な例は他の文章にも見られるのでしょうか。


A1.
 「誰」は、不特定の人物を指し示す人称代詞で、疑問詞として主語・述語・客語(目的語)に用いられます。「誰可伐者」は、主語として用いられている例です。こうした例は数多く挙げることができます。例えば『史記』でも、
 (1)管仲病、桓公問曰、「群臣誰可相者。」(齊太公世家第二)
 (2)「君即百歳後、誰可代君者。」(蕭相國世家第二十三)
 (3)誰可與共功者。      (留侯世家第二十五)
 (4)良曰、「誰為陛下畫此計者。……(留侯世家第二十五)
 (5)留侯曰、「上平生所憎、群臣所共知、誰最甚者。」(留侯世家第二十五)
のような例をすぐに見つけることができます。それぞれ、
 (1)誰が相にふさわしいか。
 (2)誰が君に代わるのによろしいか。
 (3)誰が功をともにするのにふさわしいか。
 (4)誰が陛下のためにこのはかりごとを考えたのか。
 (5)誰が最も甚だしいのでしょうか。
と解釈できるでしょうか。『韓非子』の文章も、「誰(どの国)が攻撃するのによろしいか。」と解釈するのが適当かと存じます。目的語として「誰を(どこの国を)」と解釈する必要はないと思います。生徒たちが例外事項としてはなく理解できるようにご指導をいただければよろしいのではないでしょうか。


A2.
 お尋ねの件、担当者の解説で十分かと存じますが、せっかくの機会ですから、若干の「付けたし」をいたします。
 ここには、意訳・直訳にからむ点と、助詞で万事を賄う日本語に対して語順を何より優先させる漢文との間で起こるトラブルとが複合しているといえるでしょう。それは原文の、強調を示す「者」にもいささか責任がありそうです。
 まず、担当者の回答の「目的語として『誰を(どこの国を)』と解釈する必要はない」という指摘がポイントと思います。「誰」が先頭にあるのに主語として扱わず、「だれを」と目的語にするのは意訳というべきもの。意味を主眼とした会話英語と文法中心の学校英語とは区別せねばなりません。漢文訓読は解釈と密着する直訳系に属します。
 くどくなりますが、「誰」を目的語として扱うには「可伐誰乎」というような語順が必要でしょう。しかし、この字(語)はもともと未知の人について説明を求める所謂スイカの辞ですから、Who?やWhat?と同じように文の先頭に来るのが普通です。したがって「……が」と訳すべきなのに「……を」とするのは語順の無視と言わざるをえない具合です。助詞ですべてを解決する日本語はその点自由自在なのですが。例えば、訓読の場合「たれか」の「か」は係助詞ですから「誰か在る?}のように連体止めにすべきところですが、原文側に立つと、「誰……者」は強い語気を作る形ですから、「もの」と読んだ上に「ぞ」を加えて最大限に増幅したわけで、このあたりは先人の苦心に脱帽したくなります。
 なお、お尋ねが先秦の文献なので以上のようにお答えできますが、唐宋以後にはいろいろ例外も生まれます。また、詩などの場合には韻や平仄の関係で、語順の無視が起こりがちですが、その時にも、作者が意識した倒置と、訓読調に仕立てるための倒置とは区別せねばなりません。例えば、同じ杜甫の詩でも、代表的な倒置表現「香稲啄残鸚鵡粒、碧梧棲老鳳凰枝」(オウムはイネの粒を食べ散らし、ホウオウはアオギリの枝から動かない)は文句無しに奇を狙った表現ですが、訓読では倒置に見える「昔聞く洞庭の水、今上る岳陽の楼」などとははっきり区別せねばなりません。「むかしから話には聞いていた洞庭湖、それをいま岳陽楼に登って眼にながめる」(岩波文庫・中国名詩選)について、うるさく言えば後半のみ正訳、前半は読みに媚びたもの、「むかし、話に洞庭湖のことを聞いていたが」とすべきなのに、皆が訓読の方を知っているのでこうなる次第です。よろしく一斑を推して全体をお察し賜れば幸甚と存じます。